無知の知でございました

昨日、ご近所さんにお誘い頂き、初めてお茶にお出かけしました。

近所の素敵カフェに行き、アンティークでしょう素敵テーブルに案内され、「わ~、素敵ですね~」か何か言いながら何も考えず席に着きました。

そうしたらば、何か周囲がざわついているのですね。一緒にお出かけしたご近所さんが、ちょっと狼狽した風に何か言っておられます。何かわたしをフォローして下さっているようです。

そこでようやく気づきました。わたし、上座に座っています。うお~。わたしはその場で一番年下、しかも初めてお誘い頂いた新参者なのに!油断してました~。皆さん良い方達で、「今日はゲストだから、ねっ」とフォローして下さったのと、わたしはとにかくその場ではぼんやりしていて「だって、プライベートだしね~(仕事の上下関係とかじゃないし)」くらいだったのですが。帰宅してからじわじわ効いてきました。一晩経った今日も、例によって草むしりしながらずっとそのことを考えていました。

やっちまった!と気づいた後のわたしの最初の反応は「仕事ならできたのに!プライベートだから油断してた!」でした。確かに仕事中はビジネスマナースイッチをオンにしてるので、きっと気づいたでしょう。

でも、ご一緒した皆さんもプライベートだった。それなのにいたって自然なこととして、お年寄りや年上の方に気づかいとして良い席を勧めることをされていた。はい、仕事云々は言い訳ですね。

次の反応は「わたし思ったより育ち悪かったんだな」でした。ご一緒したご近所さん達は皆、育ちが良いとはこのことかと常々思わされる品の良さ、気づかい、朗らかさをお持ちです。きっと小さな頃から、人への接し方と気づかいをしっかり教わってこられたのだと思います。

一方わたしは、ド・庶民です。両親は真面目に、持てる限りの愛情と時間を注いでわたし達兄弟を育ててくれました。でも、生活苦もありました。家族の気質として、あまり人づき合いをする方ではありませんでした。大人と接する機会は田舎ならではの葬式、法事くらい。そこで後ろ指差されない程度のマナーは教えてもらいましたが、そこ止まりです。

でも今日草むしりしながら分かりました。わたしもう44なんですよね。もう、「育ち」を言い訳にできない年齢です。社会に出てから約20年の間、観察して身につけることはいくらでもできたはず。

社会人として「後ろ指差されないため」にならできることが、普段のわたしだとできないということはどういうことか。後ろ向きな動機のために、ただ表面だけ、形だけその「動き」をしていただけで、自分の内面から湧き出る行動じゃあ全くなかったということですね。残念なことです。

残念なことですが、気づけたこと自体は良かった。気づけたなら、変われます。わたしは、自分に気づかいを教えないといけません。後ろ向きな動機のためでなく、それが正しいからでもなく、愛から出る気づかい。マナーって本来はそういうものでしたね。

実は、ウツ前わたしが来ていた着ぐるみは「気づかいの人」でした。友達にも、近所の人にも、見知らぬ人にも気を使えていたと思います。でも、動機はネガティブでした。嫌われたくない、好かれたい、浮きたくない。だから疲れますよね。ひとりになっては「あ゛ーーーーー、づがれだーーーーーー」と脱力してました。

今は、着ぐるみは脱いで本体で過ごしているんですが、この本体はまだ未熟で、ひとへの思いやり、気づかいが足りないことに今回気づきました。

ほんとうのマナーを、自分に教えようと思います。