わたしの三つ子の魂

あら!いつの間にか9月も3日ではないですか。気づけば8月は4回しかブログアップせず。少しだけ反省。

毎日なんだか充実しています。畑行って、野菜採ってお世話して、草刈って、じっと見て回って、帰ってきたら採った野菜の保存作業して。生活が畑を中心に回っています。

そんな中、ふとした時にはついつい「これからの仕事(お金)どうしよう」と考えています。頭で考えてもきっと分からないことなので、畑に行って体を動かして、色々見て感じるという今の方向はたぶん「合ってる」のだとは思いつつ、頭は余計な心配をしがちです。

今のキーワードは、『「違うこと」をしないこと』。吉本ばななさん。いつからかな、多分ウツ後からずっと好きな作家さんです。「違うこと」とは、本当の自分(生まれた時の自分)が望むことではないのに、世間体、思い込みなどでしてしまうこと。

わたしずいぶんしてきてしまいました、そして今もしています、「違うこと」。相手のため、とかその場の雰囲気のため、と思ってすることではあるけれども、そのたびに自分のどこかがきゅっとへこむのは確かにその通り。これから、まずわたしに忠実な言動をしていこうと思いました。

生まれた時のままのわたしって、何が好きで何を望んでたんだったっけな?ということも考えます。「三つ子の魂百まで」の通り、そのわたしの望みが「違わないこと」だと思うので。

思い出すのは、学校の帰り道、時々野の草花で小さな花束を作って母に持って帰ったこと。子供の熱い手で握りしめるから、すぐしおれてしまって、家に着くまで持たないこともよくあったな…。食べられる野草や果実の採取でなぜかすごく興奮する子供だったこと。春のつくし、セリ、ヨモギ、野イチゴ、夏の桑の実、秋のシイの実。学校のウサギに持っていくタンポポやクローバー探しも熱くなった。

想像力豊か(過剰?)な子供でもあったっけ。子供は皆そうかな。タオルにはタオルの精、ガラスにはガラスの精、石鹸の泡にも精がいて、お風呂は色々な精と遊べる楽しい時間であると同時に、ひどい扱いをすれば(タオルをぎゅうっと引っ張るとか)ひどい報いが帰ってくるはずの、怖ろしい場でもあった。目を閉じたらいつでも怖いものが窓からのぞいているはずだった。

字が読めるようになったら嬉しくて、手当たり次第本を読んだ。本の中の世界や登場人物が楽しくてたまらなかった。楽しすぎて学校の帰り道歩きながら読んだくらい。でも両親の本棚の本達は威圧的でいかめしくて、「本がコワイ~!」と泣いて母親に呆れられたことがあったっけ。

山のミカン畑に行けば、ミカンはおいしくて大好きだし、時には木の根元に野犬の赤ちゃんがうずくまってるのを拾えるし、廃屋を発見できるし、沢にはカニやカタツムリの赤ちゃんがいるしで興奮のるつぼなのに、ある時あることに気づいてミカンコンテナから降りられなくなって泣いたこともあった。畑の地面には、わんさか虫やにょろにょろしたのがいて、歩くたびに踏んでしまうに違いない!

隣のおばあさんは、森や畑がある広い敷地の中の小さな家にひとりで住んでいた。ひとりで寂しそうには見えなかった。ほがらかで、楽しそうに庭の花や畑の世話をし、遊びにいくとかわいがってくれた。いつの間にかおばあさんが街の子供の所に引っ越し、その後亡くなり、森も畑も家もなくなって、砂利が敷かれた資材置き場になった。小さな頃のわたしの野望は、その土地を買い取って、元の森と畑と小さな家を再現することだった。

ほぼ自分の覚書ですね。でも私の中には今もこのおかしな子供がいるのです。