3か月のまとめ。Fun化進んでます。

あら。ちょうど3か月もブログをさぼってしまいました。この3か月間、正直ブログへの興味はかなり下がっていたし、Kikoにも「もうやめたんでしょ?」と言われ、それを否定できない自分がいました。

なのにまた何か書こうとしています。不思議。いや今久しぶりに自分のブログを読んだら、けっこういいこと書いてあるなと思って。自分への覚え書きとして、やっぱり時々書いていこうと思います。

11月初めに畑じまいをして、ヒマになるのかな~とぼんやり思っていたのですが、意外に忙しいまま、もう今年が終わろうとしています。何で忙しかったんだっけ。

我が家には沢山落葉樹があり、秋は落ち葉祭りとなります。これまではブロアーでブワっとして終わりだったのを、今年から全部集めて袋詰めにして、畑の近くに積んで堆肥化することにしました。軽トラで何回往復しただろう…。Kikoありがとう!

借りている畑は家から車で20分ほどのところにあるのですが、ハーブ類など思い立ったらすぐ欲しいものを育てる用に、Kikoが家の庭にミニ菜園を作ってくれました。伐採したカラマツの皮を剥ぎ、柿渋を塗って枠を作り、以前作った腐葉土や米ぬかなどを入れて。Kikoありがとう!

Kikoの仕事の助手にも行きました。庭木の伐採でした。今回初めて、細い枝葉も幹も全て、サイズごとに結束して運び出し保管しました。細いものは焚き付けや薪用、太いものは木工小物の材料用として使う予定です。

今年から行き始めたコストコで、先日衝動買いをしました。アメリカ製のコンポスター。沢山入って、ぐるぐる回せて、熱を吸収する黒い素材で、見かけが変じゃない!しかも通常価格より3000円お安い!自分へのクリスマスプレゼントです。生ごみを捨てる生活、さようなら!さすがDIYのお国アメリカ製、組み立てがえらい本格的で電動工具も技も要求される作り。昔取った杵柄を活かし、Kikoが組み立ててくれました。Kikoありがとう!

あれ、全部Kikoがしてくれてる…。わたしもその場にいて助手してたから、何かはしてたんですよ、だから忙しかったんですよ?

とにかく。落ち葉、カラマツ、伐採した木、生ごみ、そのままなら全部ゴミです。でも全部を活かしきる。植物の命をいただいて、全て使わせてもらって、自然のサイクルの中に戻す。そのループに必要なアイテムを着々と準備中です。加工用の木の乾燥は短くて2~3年、堆肥づくりはたぶん1~2年、コンポストは半年、それらを使った土作りにもその先何年もかかるでしょう。畑の作物のように数ヶ月で成果が出る作業ではないし、何もかも茶色のまぁ地味な作業です。でも、楽しい!

道に吹きだまっている落葉、放置されたままの倒木、立ち枯れたススキ…。何を見ても「貴重な資源」に見えて、ときめきます。初めて落葉かきが意味のある楽しい作業と思えました。そういえば今日は今シーズン初の積雪・除雪作業でした。雪だって、資源かも。持ち運びできる水として、低温貯蔵の保冷剤として。除雪作業も、もっと楽しめるのかもしれません。Fun、順調に深化中です。

 

 

トマトをもぐたび「ありがとう」

今日は仕事が休みなので、久しぶりに畑に行けました!

畑に向かう車中から、もう幸せです。道中の景色に森が多いせいもあるのだと思いますが、実際の距離と共に植物(畑の野菜達)に近づいている感じがして、森を見ているともう、わけなく幸せになってきます。

借りている小さな畑は、寒冷地にあるからか標高が高いからか、我が家の野菜達はゆっくり色づきます。実は、トマトもキュウリもナスも、今がようやくピーク。

嬉しい収穫をしながら、今日は泣きそうになりました。具体的にはトマトをもぎながら。

トマトは雨に当たらないように、ということでビニールの屋根で覆っています。でも、貧乏性の私たちは、298円の「高級苗」を少しでも増やしたくて、脇芽をとっては挿し、とっては挿しして株数を増やしました。結果屋根の下からはみ出す苗達。

まだトマトが青い頃、今年の長雨に当たってしまった「はみ出し」苗達が、まず病気になりました。トマトの疫病で、プロの農家さんなら見つけ次第株ごと引き抜き焼却して流行を防ぐという怖い病気です(多分)。気づいたときには、雨に当たる外側の株から、内側の株にもうつった後でした。

葉もたくさん落ちました。雨に当たった株の実は大半が落ちてしまいました。その中でも一番病状がひどかったのが、大玉トマトの桃太郎です。葉や実が落ちるだけではなく、メインの茎にも病斑が出ました。しかも虫にも食べられたようで、茎に大きな穴が開いています。病気の葉を落としていったら、上の方にオバQの毛みたいなちょろっとした葉しか残りません。青い実がかろうじて3,4個残っているでしょうか。

プロがするように、根元から切ろうとしたのです。これ以上被害が広がらないように。でも、思いきれませんでした。トマトが全力で生きようとしていたからです。病気で落ちた葉の後から、小さな小さな脇芽が出ています。数少ないオバQ葉っぱも、必死に伸びようとしているように見えました。

病気が広がる不安はありましたが、元はといえば欲張って株を増やし、雨に当ててしまったわたし(人間)が悪いんであって桃太郎は悪くない。桃太郎に謝りました。うまく世話してあげられなくてごめんね。気づけなくてごめんね。実はつけなくていいから、秋の畑じまいまで皆と一緒にいよう。

他の病気のトマトにも、同じように謝りました。そうして100倍に薄めた酢をスプレーしました。その後晴れたせいか、酢が効いたのか、病気の進行が止まったような気がしました。でもその後雨が続くとまたぶり返し、もう一度酢スプレーをしました。

それぐらいしかできなかったのに、涼しくなったからか病気の進行がゆっくりになり、雨に当たり続けたはみだし株では残った数少ない実が色づき始め、内側の株はほとんど実を落とすことなく、たわわに赤い実がなりました。

なんと桃太郎も、葉はほぼないにも関わらず、残った実がしっかり赤く熟しました。

桃太郎の実をもぐ時、自然に「ありがとう、がんばったね。おいしくありがたく頂きます」と話しかけていました。泣きそうになりました。他のトマトをもぐ時も同様です。人間が勝手な思いで植え、雨に当てたり脇芽をかいたりヒモで柱に縛り付けたりといたらないことばかりなのに、健気に必死に生きて、エネルギーの固まりのような、滋味あふれる実を与えてくれる。

野菜は、植物は、本当に力強くてやさしいです。

今は野菜の力に助けられるばっかりですが、もっと勉強し経験して、野菜の「頼れる助っ人」に早くなるんだ!!

 

 

 

 

人生すごろく 「思わぬ展開 1回休み」

そして前のブログから早半月。ちょっぴり忙しいです。なぜか。なぜか通訳の仕事が入ってきたから…。

卒業するって、崖からジャンプするんだって決めていたのにこの展開。ひとつの案件は自宅の近く(出張しなくてよい)だったのでお引き受けしました。もうひとつは義理人情でお引き受けしました。

…でも要はこの先の収入が不安だったから、きっぱり断れなかったのです。弱気なところにオファーが来たので、イエスと言ったのです。

仕事って、バランスが難しいです。生活(マネー)のためにすることであり、人に望まれることを対価を頂いてすることで、でも一方で自分を活かすためにすること、自分がわくわくすることを極める先にあるものという気もします。

全部を満足すること、何だろう。どれだろう。それは今すぐ叶うことなのか、将来のいつかそうなるのか。

ちょっともやもやしています。仕事を受けたことは後悔していません、多分。でも畑に行けないのがツラいです。畑~!ラブ~!

今は仕事後の猫が癒しです。彼等は自由で美しくてありのままでかわいい。目指せ猫。

山の白魔女になりたい

分かりました。よくあることだけれども、頭で考えて考え尽くしても分からないことが、ある時ぽかっと抜けて分かる時、ありますね。わたしも今さっき、それが来ました。

頭では、「したいこと」として畑とか食べるものをできる限り自分で作ることや、小さくていいので野山を健やかな姿にすることをしたいと思っていました。一方で生活の糧としては、やっぱり頭で考えるのでこれまでのレールの延長線上にどうしても戻っていってしまっていました。家でできる翻訳仕事で「つなごうか」とかね。

いかーーーーん!!守りに入っていました。今はわたし崖からジャンプ中なのに!背中にまだ風船パラシュートを背負ってました。手放すぞ!

今さっきというか正確にはシャワー浴びてる間に分かりました。(ちなみに寝てるとき、シャワー中、トイレ中とかの直感の精度は高い。信じるべし。)わたし、植物をもっともっと知って、植物の恵みをもらいたいんだ!それを親しい人達にも分けてあげたいんだ!

片鱗は子供の時からあったんでした、そういえば。「食べられる野草」から始まり、花びらを潰して水に溶かして、「きれいな花色の水」を作ろうとしてました。一時期薬草のチンキを作りまくって化粧水にしたり、石鹸にしたりもしてました…。家族に怪しまれたのも今は懐かしい思い出です。

「グリーンフィンガー(植物を育てるのが上手な、緑の指を持つ人)」という表現を初めて聞いたのは確か11、2歳の頃。新井素子さんのSF小説だったかな?植物と通じ合う人を描いたお話に、それからもいつも惹かれていたのも思い出しました。

「雑草」と言われる野草がわんさか生える畑で、大家さんがあるとき言いました。「雑草が金になればいいのにな」。人間が常食しない、育てないだけで、わたしが知らないだけで、実は食べられるのかも、実は薬効があるのかも、実は香りが癒してくれるのかも…。

植物と向き合って尊重することと、植物の命をもらって利用させてもらうことと、経済。これバランスをどうとるか難しい天秤だと思います。バランスが崩れたら、ひらたく言えばわたしが欲張りすぎたり植物がお金に見えてきたりしたら、何かが失われるとも思います。

自戒の気持ちは忘れないようにしつつ、でもわたし、山の白魔女になりたいんだ!そう思ってPCを立ち上げたらば、「したいことリスト」のポストイットに全部書いてありました。

かご、染色、植物チンキ、藍立て、農業、土の浄化、微生物、薬草、ひふみ、マヤ・アンジェロウ…。

なぜかアンテナに引っかかるので、図書館で本を借りるテーマの覚えとして1年ほど前から書き始めたリストです。(後ろのふたつは毛色が違うけど。)

よく「答えは全て自分の中に」って言うけど、真実だから皆言うんですね。全部自分の中にもうありました。忘れてた。全部小さな頃から、なぜか「わくわく」すること。ちょっと手を出しただけで、色々な言い訳をして(時間がない、今からじゃ遅すぎる、お金にならない…)本気で飛び込まなかったこと達。

ようやく分かりました。これがわたしのFun暮らしです。

さぁ、やるぞ!

わたしの三つ子の魂

あら!いつの間にか9月も3日ではないですか。気づけば8月は4回しかブログアップせず。少しだけ反省。

毎日なんだか充実しています。畑行って、野菜採ってお世話して、草刈って、じっと見て回って、帰ってきたら採った野菜の保存作業して。生活が畑を中心に回っています。

そんな中、ふとした時にはついつい「これからの仕事(お金)どうしよう」と考えています。頭で考えてもきっと分からないことなので、畑に行って体を動かして、色々見て感じるという今の方向はたぶん「合ってる」のだとは思いつつ、頭は余計な心配をしがちです。

今のキーワードは、『「違うこと」をしないこと』。吉本ばななさん。いつからかな、多分ウツ後からずっと好きな作家さんです。「違うこと」とは、本当の自分(生まれた時の自分)が望むことではないのに、世間体、思い込みなどでしてしまうこと。

わたしずいぶんしてきてしまいました、そして今もしています、「違うこと」。相手のため、とかその場の雰囲気のため、と思ってすることではあるけれども、そのたびに自分のどこかがきゅっとへこむのは確かにその通り。これから、まずわたしに忠実な言動をしていこうと思いました。

生まれた時のままのわたしって、何が好きで何を望んでたんだったっけな?ということも考えます。「三つ子の魂百まで」の通り、そのわたしの望みが「違わないこと」だと思うので。

思い出すのは、学校の帰り道、時々野の草花で小さな花束を作って母に持って帰ったこと。子供の熱い手で握りしめるから、すぐしおれてしまって、家に着くまで持たないこともよくあったな…。食べられる野草や果実の採取でなぜかすごく興奮する子供だったこと。春のつくし、セリ、ヨモギ、野イチゴ、夏の桑の実、秋のシイの実。学校のウサギに持っていくタンポポやクローバー探しも熱くなった。

想像力豊か(過剰?)な子供でもあったっけ。子供は皆そうかな。タオルにはタオルの精、ガラスにはガラスの精、石鹸の泡にも精がいて、お風呂は色々な精と遊べる楽しい時間であると同時に、ひどい扱いをすれば(タオルをぎゅうっと引っ張るとか)ひどい報いが帰ってくるはずの、怖ろしい場でもあった。目を閉じたらいつでも怖いものが窓からのぞいているはずだった。

字が読めるようになったら嬉しくて、手当たり次第本を読んだ。本の中の世界や登場人物が楽しくてたまらなかった。楽しすぎて学校の帰り道歩きながら読んだくらい。でも両親の本棚の本達は威圧的でいかめしくて、「本がコワイ~!」と泣いて母親に呆れられたことがあったっけ。

山のミカン畑に行けば、ミカンはおいしくて大好きだし、時には木の根元に野犬の赤ちゃんがうずくまってるのを拾えるし、廃屋を発見できるし、沢にはカニやカタツムリの赤ちゃんがいるしで興奮のるつぼなのに、ある時あることに気づいてミカンコンテナから降りられなくなって泣いたこともあった。畑の地面には、わんさか虫やにょろにょろしたのがいて、歩くたびに踏んでしまうに違いない!

隣のおばあさんは、森や畑がある広い敷地の中の小さな家にひとりで住んでいた。ひとりで寂しそうには見えなかった。ほがらかで、楽しそうに庭の花や畑の世話をし、遊びにいくとかわいがってくれた。いつの間にかおばあさんが街の子供の所に引っ越し、その後亡くなり、森も畑も家もなくなって、砂利が敷かれた資材置き場になった。小さな頃のわたしの野望は、その土地を買い取って、元の森と畑と小さな家を再現することだった。

ほぼ自分の覚書ですね。でも私の中には今もこのおかしな子供がいるのです。

 

 

 

畑の学校に入学します。先生は野菜と野草と土と生き物。

ブログを休んでいる時は、活動している時です。今日も活動してきました!はい、いつもと同じ小さな畑でのもろもろです。

でもね~、場所とすることが同じだからこそ分かる自分の変化ってありますね。定点観測ならぬ、定点自分観測。

今日したことのひとつは、種まき。ニンジンと大根。昨日パクチーもまきました。前のブログで、「種まき、今一つ楽しめない」と言いました。事実そう思ってました。昨日今日は種まきしながら、「種まきは、祈りだな…。」と思いました。この差!自分でもびっくりです。種は色々な条件が揃わないと芽が出ないそうですね。地温、水分、まくタイミング、まき方。発芽した後は条件に日光、栄養が加わって。

今年の畑でも、タイミングが悪くて大豆が全く発芽しなかったり、ニンジンも出芽率1割だったり、色々やらかしてしまっています。

一方、種からまいたレタスが大きく育ったり、ひよっこ苗だったナスやセロリが立派に大きくなったりしています。トマトもおいしく育ってくれました(苗からですが)。収穫が沢山になればなるほど、一粒のタネからこれが始まったのか、と驚嘆するしかありません。

種には、最良の結果(実り)をもたらすのに必要な情報は全部詰まっています。種は、可能性のカタマリです。後はニンゲンがその可能性をフルに引き出せるかどうかです…。わたしのしたことの答えが、大変分かりやすく現れる種。今のところ全然ダメです。だから、反省と祈りを込めて、種まき。でもまだ種の気持ちになりきれていません。技術も思いやりも、もっと学ばねば。

したことのもうひとつは、草刈りです。草とのつきあいについても、以前から何回か書いています。去年の畑1年目から振り返ると、草刈りへの気持ちもどんどん変化しています。去年は「苦行」でした。草まるけの畑では大家さんに悪いから、とにかく体裁を整えるためにする作業。今年は、「芽の内に抜いて完璧に除去」→「雑草も役目がある。根が土を柔らかくしてくれるから根だけ残して刈る」→「草が土を耕してくれている、バランスを整えてくれている。草と共生したい。また生えれるように地上5,6センチで刈って、刈った草はマルチとしたり、通路に敷いて土を踏み固めないようにしよう。」←今ここ。

草を刈る時に、ごめんねとありがとうが自然に出てくるようになりました。命をもらってしまってごめんね、でもまた生えてね。大きく育ってくれてありがとう、マルチとして使わせてもらうね。土のバランスを取ってくれてありがとう、働きをむだにしないからね。

雑草=野草=植物=野菜。人間の都合で分けているだけで、同じ植物です。野草のことも、もっと知ろうと思います。敵をつくらない畑を目指します。

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ツユクサ。造形も色もすてき。

 

崖からジャンプしたら緑の道が見えてきた

再びお久しぶりの更新です。

今回時間が空いたのは、出張から帰って以来楽しいことが毎日目白押しで楽し忙しくて!ブログがちょっとお留守になってました。

この10日間位の間にもどんどん変化しています、わたし。

まず、これまで約7年間お世話になってきた産業系の通訳を卒業しました。前に依頼をお受けしている案件はあと2つ、と書きましたが、その内1つが直近の出張で終わり、もう1つはキャンセルとなりましたので、これで正式に「崖からジャンプ」です!

出張中も、ずっと食と農の本を読み続けていました。今も読んでいます。ありがたいことに良い本にどんどん巡り合えていて、目指す方向がどんどん鮮明になってきます。興味が尽きない。学ぶことがこんなに興奮とわくわくの詰まったものだったなんて!これまで欠乏していた栄養素を初めて食べた体のように、喜んでいます。これからどんどん学んだことを吸収して、自分の血肉にしていきたい!具体的には、畑をもっと本気でします。本気で畑の自然と向き合います。そして学んだことをここで共有します。

一方畑では、トマトやナス、唐辛子など夏野菜がたくさん採れはじめました。畑の野菜で Kiko が作ってくれたサラダを食べたときのこと。「おいしい」と感じました。そしてそのおいしさには舌と脳が感じるおいしさ以外に、微妙で繊細で主観的な、直感が感じるおいしさもあるように思ったのです。「自分で作った野菜だから」。それもそうなんです。自分の手と頭と体を動かして作ったから、余計おいしく感じる。でもその人間側の理由の他にも何かある気がして。野菜達が、いつも接するわたしのことを思ってくれて、わたしの体と心に必要なおいしさ(栄養素、エネルギー)を蓄えてくれたのじゃないかと思ったのです。だから食べておいしいし、細胞が喜んでいる感じがしたし、その後しっとり心が落ち着いて満ち足りたのでは?

科学的根拠ゼロですが、植物の慈愛にこれまで助けられてきた身としては、直感だけで充分なのです。やっぱりあんた達(植物)は底抜けに優しい。ありがとう。そして「自分で育てたものを食べる」ことの大切さは、実はここにもあるのじゃないかとも思いました。(見知らぬ野菜じゃなく、わたしのことをよく知っていてわたしのためのおいしさを貯めてくれた野菜を頂く)。これからの野菜とのコミュニケーションが、更に楽しみになりました。

農業は科学だ。それも正しい。農業はスピリチュアルだ。それも正しい。ついでに農業はクリエイティブだ!植物の命を育み、それを頂いて人の命を育み、地球の命(環境)も育む。すっごいな~、農業。これら全てが融合する道を行きたいと思います。

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パクチーの実(コリアンダー)とコミュニケーション。

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パクチーの花は虫達に大人気。ウォーリー(ミツバチ)を探せ。