やっぱり食べるものを育てるのは大事なことだ

お久しぶりの更新です。

もうブログ辞めたんでしょと思ったそこの人!辞めてませんから。

仕事がらみで実家に来て、3連休を久しぶりに実家で過ごしています。

今日は以前から私の仕事だった年中行事、ブルーベリージャム作りをしました。

今は実家の庭先に植わっているブルーベリーの木2本は、元々わたしが都会にいたころにホームセンターで買って、プランターで育てていたのでした。幼稚園児くらいまで育ったのを実家引っ越しと共に連れて帰り、早15年…。立派な大人になって沢山実をつけてくれています。

ブルーベリージャム、せっかくだから地元のおいしい材料を使おうということで、甘味料にはちみつを使います。これは実家の元みかん畑(今は耕作放棄地になってしまっています)にミツバチの巣箱を置かせて、と頼まれたご近所の方からお礼にもらったみかん蜂蜜。

あと材料にレモンがいります。近所のスーパーに買いに行きました。(3年くらい前までは庭に1本レモンの木があったんですが、「誰も食べない」と父がさっくり切ってしまって…。思い切りが良くて時々びっくりします。)防カビ材を使った輸入レモン一択でした。うーん、ときめかないなー。何か考えよ、と思って帰宅。

そして思いつきました。庭にはみかんの木も1本あることに。夏の今、みかんは当然まだ熟していないので青みかんです。青みかん果汁なら、酸味もあってレモン代わりになるんじゃない?ビンゴでした~!青いながらもみかんはみかん、レモンよりまろやかな酸味とかすかな甘み、何より良かったのは香り!果皮の爽やかでやさしい、どこか懐かしい香りはずっと嗅いでいたい、心が穏やかになるようなものでした。

毎年のブルーベリージャム作りですが、今年は気持ちが違いました。自分も小さな畑を始めたことで、材料のひとつひとつのありがたさ、嬉しさが前よりずっしり分かるようになりました。

ブルーベリーの世話をし、実を摘んでくれる父。あんなに小さくてひよわだったのに、大きくなってたわわに実をつけてくれる木。(2本中1本は根を虫に食べられてしまって弱っています。ごめんね。)レモンを買わなくても、庭にみかんの木があって青みかんを使わせてもらえる幸せ!世話をされなくなっても、健気に花を咲かせ続け、ミツバチに蜜を提供するミカンの木。蜜を集めてくれたミツバチ。

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ジャム、素材これだけ。

どれも、うち(実家)で生まれてうちで育った材料たち。今回買ってきた材料は何もありません。お金に換算できない何かがあります。何だろう。市場の原理や経済至上主義が取りこぼしてしまった何か大切なことがある気がします。

ジャムを食べながら、それが何か考えようと思います。

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おいしかった。

 

「いただきます」理解がもう一段深まりました

半年前に生まれて初めて猫を飼い始めたときに思ったものです。人ってこんなに簡単に「猫フリーク」になるのか!それまでの自分を反省しました。猫飼いの人達が自分ちの猫がいかに可愛いかメロメロになって話すのを、「それはかわいいですね!」と言いつつ(へーーーー…ちょっと引くかも)と思っていたことを。

なんでそんなことを言い出したかというと、今日も畑の話だから、その言い訳です。だって!毎日いろいろ発見があって楽しいんですもん!きっと第3者目線で見たら、「へーーーー…ちょっと引くかも」なことでしょうが、いいんです。どっちみち今のところ読者1人(Kiko)だし。

そんなわけで今日も畑行ってきました。

今日ちょこまか作業をしながら、ふと思いました。「わたしが刈っている草や、芽かきをするトマトの木は、わたしのことどう思っているのだろう?」同時に子供の頃聞いて印象に残っている「植物に心があるか調べた実験」のことも浮かびました。今ググりましたら、アメリカのバクスターさんの実験のことでした。1960年代、嘘発見器のプロだったバクスターさんがちょっとしたいたずら心から嘘発見器を観葉植物につなぎ、「葉っぱを燃やしてみようかな~」と心で思っただけで、嘘発見器の針が激しく反応した、というものです。教科書にあったんだったかな。花が、いじわるする人とやさしく世話する人に違う反応をしたとも書いてあった気がします。

そうすると次は目にする何もかも、自分がすること全部が気になりだします。かぼちゃの枝も切るし、レタスの小さいのも間引くし、ナスもピーマンも実を奪っていく。虫もそう。一番良くて放置で、トマトの実を食べるイモムシは、指で弾くか、勇気が出れば「捕殺」ていうこともします。アブラムシも同じ。

…残念ながら、畑の誰もわたしの存在を喜んでいる気がしません。

もちろん植物や昆虫に人のような感情があると断言はしませんしできません。でも、明らかに命です。生まれて、成長して、子孫を残し、死ぬ。命がある存在全てに共通するこのサイクルで生きている。

「奇跡のリンゴ」で有名な、無農薬リンゴ栽培を成功させた木村さんも、本の中で書いておられます。畑のリンゴの木が全て枯れそうになったとき、一本一本「どうか生きてくれ」と話しかけた、と。でも隣地との境の木には、恥ずかしくて話しかけなかった。話しかけた木だけが生き延びたそうです。

畑の大家さんも、あるエピソードを教えてくれました。軒先のモクレンの木が大きく育ちすぎて、倒れたら家に危険なほどになったそうです。場所が場所だけに、切って倒すこともやはり危険。その話を知った友達がアドバイスをくれました。「木は人間の言葉分かるから、あんたいらないよ、もう枯れていいよと言ってやったらいいよ」半信半疑でその言葉を言ったところ、本当に元気がなくなり、枯れていったそうです。

畑で野菜を「育ててる!」と調子に乗っているわたしですが、虫や雑草から見れば天敵、野菜だって体をいじくった挙句食べてしまうという、虐待まがいのことをしているのかもしれません。

そんなことを思いながら(今日もまた)パクチーの葉をむしりました。人間て、何なんだろうなどという大きく構えた疑問も浮かびます。動物を食べ(殺し)、植物を食べ(殺し)、その過程で更にたくさんの生命(虫、雑草、微生物もかな)を殺し。そうすることでしか命をつなげない。そんなことを言い出したら生きとし生けるもの全部がそうなのですが、それに疑問を持てる存在はたぶん人間だけ。なのだとしたら何らかの答えを見つけることができるのも人間だけのはず。

人間だけが、なんだか世界で鬼っ子な存在だよね、という昔からの違和感もふわふわ意識に浮かんできます。自然の存在は、動物も植物も石も土も水も皆調和しているようなのに、人間だけ人工物を作り、手に余るテクノロジーを作り、調和を乱している鬼っ子。自然に与えることなく、奪うばっかりの存在のような気もしてきます。

ちょっと暗くなりながら今日の作業を終えてこのブログを書き始めたら、答えの一部がこれまたふわふわと浮かんできました。「感謝をする、それでいいんだよ」。

ちょっと話を植物だけに絞らせてください。個人的な話ですが、ウツから回復するときも、その後の自分的危機のときも、植物に救われた自覚があります。人間は刺激が強すぎてムリだったときも、とにかく安全な場所へ逃げたいと思ったときも、近所の公園に行きました。雑木林の緑のグラデーション、木漏れ日、芝とその間に咲く野花に何度なぐさめられたか分かりません。

その時も少し、今回と似たことを思ったのでした。植物にこんなに助けられているのに、わたしは何も返せていない。そして感じた答えも同じでした。「いいんだよ」。

「いいんだよ」では説明不十分ですよね。あえて言語化するならば、植物たちはとにかくやさしいと感じました。人間の損得勘定とはスケールが違う大きな視点を持っていて、わたしが植物を愛で感謝する、その気持ちだけでいいんだよ、と言ってくれているような気がしました。

今日の「いいんだよ」も、同じやさしさから出ているものだと思います。生き死にも損得勘定も、人間のそれとはスケールが違うのでしょう。自分の命が別の命(わたし)へつながるだけのこと。「感謝」とともに食べることで、自分(野菜)はあなた(わたし)の一部になり、つながっていくからいいんだよ。

植物以外の存在についてはまだ答え探し中ですが、何を食べるにせよ、心底から「あなたの命をいただきます。わたしの中で生きてね、ありがとう」と思えたら、本当の意味で食べ物が身も心も養う、生きた食事になるのでしょう。

これから植物・野菜と向き合うわたしなりの指針ができました。植物への罪悪感からは、これでひとまず自由になれそうです。次は虫だな…。苦手なんだけどな…。

 

 

パクチーの芳香成分は幸せ効果があるのでしょうか

今日もしたことはぱっと見いつもと同じです。小さな畑に行き、野菜の世話(本人はそう思っていますが、実際お世話できているかはナゾ)、草刈り、収穫。帰った後は採った野菜を洗ったり、食べられる部分とそうでないところを分けたり。そういえば今日喋った相手、Kiko と畑の大家さんと猫達と野菜だけだ~!

まあ、これ以上ないくらい地味な生活ですよ。今日は暑くて日焼けもしたし、ヘロヘロになったし、汗臭いし…。

でもですね、今日収穫したパクチーの葉を取りながら(花が咲いちゃってね…)思いました。そういえばわたし、これまで生きてきた中で今が一番幸せかも。

自分でもちょっと驚きました。なんで?!この地味な1日のどこに幸せ要素ある?今日稼いだ現金、ゼロ円。手に入ったものは畑のピーマン1個、ナス1個、青唐辛子6個、レタスの間引き菜ちょっぴりとそれからとうが立ったパクチー2株。

少し考えて、謎が解けました。したいことをしているからだと思います。

例えば、生活のためには現金がいる、だからそのためにまず働いて、余った時間でしたいことをしよう。このライフスタイルを選択する人が大部分だと思います。わたしもつい最近までそうでした。でもこの1ヶ月少々、初めて仕事を断り自由な時間を作り、したいことをしています。家族といることもそう。畑に行くこともそう。帰ってから畑の恵みに感謝しつつ、下処理をしたり保存食にしたりもそう。あ、このブログもそうです。

3年少々と短いフリーランス生活ですが、これまでも1ヶ月くらい仕事が切れることはざらにありました。会社員の皆さんから見たら(昔の自分から見ても)羨望の、「ロングバケーション」がある生活です。

でも、いつも不安があってロングバケーションを満喫できていなかった気がします。もし先の仕事がない状態なら当然「わたしこのまま一生仕事来ないんじゃ…」と不安だし、例えば1ヶ月先の仕事が決まっている状態でも、「早く仕事の準備(通訳する分野の勉強や下調べ)始めなきゃ」「次の仕事も難しそう、わたしでできるんだろうか」と不安になります。

せっかく1ヶ月も自由になる時間があっても、気分的には「あろうとなかろうと、とにかく次の仕事の心配をする時間」になってしまっていました。だから、「今度時間があるときにあれもこれもしよう」と忙しい時思っていたことも、結局しないまま時間切れになっていました。もったいないですね。

そういえば今回のこのロングバケーションが、初めて主体的に「出張を伴うお仕事を減らそう」と決めて、自分で作ったお休み期間です。毎日したいことをし、毎日色々な気づきがあります。あることを知ると、その次のことが知りたくなり、どんどん学ぶ意欲がわいてきます。仕事やなりわいって本来こういう始まり方をするものなのではないか、とも思います。

誰に評価されるわけでもなく、対価が発生するわけでもない、でもしたいと思えることをまずしてみる。この最初の一歩をしてみる時間を作れたこと、そうできた状況、そう決められたその時の自分、全部が幸運ですね。感謝です。

そんなわけで今日はパクチーむしりながらついつい鼻歌が出て、Kiko(パクチー大嫌い)に「楽しそうだね」と嫌味を言われながらもやっぱり幸せだと思ったというお話でした。

地味で小さくて、でも可能性の固まり、種。

梅雨は明けたと勝手に思っていたのですが、まだみたいですね。今日も畑に行ったのですが、2時間ほど経ったら雷がゴロゴロ言い出し、そのうち降ってきました、雨。でも今日は読みたい本があったから、わくわくして帰ってきました。

「タネと内臓」吉田太郎著 築地書館

「学びたい」モードはまだ続いていて、先日図書館で10数冊本を借りました。食の話、農業、環境、自給自足してる人達のフォトエッセイなど。今何に興味のベクトルが向いているか、大変分かりやすい選択です。

本は良書!読み始めたら、サスペンスを読んでいるようで夜遅くまで本を置けませんでした。読み飛ばしてはもったいないので、今日イチからメモりながら読み直しています。

でも今日は、この本の感想ではなくて、タイトルにもなっている「タネ」についてぼんやり思うことがあったので、書きます。

畑でする作業のひとつに、もちろんあります。「種まき」。でもわたし、実はこの作業があんまり楽しめないんです。なんでだろう。まだそれぞれの野菜の種のことをよく知らないので、皆一緒の黒い粒に見えます。土にちょっと穴を掘って、種をパラパラっと入れるか置いて、土かぶせて、水やって。同じ繰り返しを、何十回。ちょっとね、飽きてしまうのです実は。

草刈りの方がまだずっと楽しい。それはたぶん、違いがすぐ目に見えるから。種まきは、ビフォア・アフターが全然分からない。手ごたえがない、実感がない。その後も、できるのは水やりくらいで、じっと発芽を待つしかできません。地中は見えない。芽が生えるのか生えないのか、知っているのは地中の種だけです。

大家さんにも言われました。「種から育てるのは素人には難しいよ~。苗買ってきた方がいいよ~」って。確かにそうです。苗は楽しい。もう目に見える株があって、それが日に日に育っていきます。

だけど「タネと内臓」を読みながらふと至極当たり前のことを思いました。種が全ての始まりで、始まりは地味なものなのかも。いまいち楽しめない種まき(とその後の土の沈黙)ですが、でもこの作業をしないと、食べたい野菜・作物は絶対に育たない。種をまいたって必ず生えるわけではないし、芽が生えても実が順調になるかは分かりません。でも、大豆が食べたければ大豆の種豆を、バジルが食べたければバジルの種を植えないことには、自分が欲しいものが育つ可能性は永遠にゼロパーセントのままです。だから、地味な種まき作業は実は畑作業のきもなんですよね。種のこと、もっと知って種が喜ぶまき方をすること、多分大事なんだろうな。

You reap what you sow. 自分がまいた種は自分が刈り取る。因果応報と訳すと浮かぶ図が仏教寄りになってしまいますが、自分の行いが自分に帰ってくるということですよね。

畑仕事にぴったりなこのことわざ、もっと大きな読み取り方もできると感じます。人の願望や願いが形となり実現していく過程も、同じですねきっと。この場合の種は、願望を持つこととか、ベクトルをセットすることかな~。願望という種を持つ。種を持っているだけでは何も起こらない。種は土に植える必要があります。願望は実現するために必要な環境に置いてやる必要があります。何が自分の願望にとって健やかな土壌であり水であり太陽であるかは、それぞれが考えないといけないのでしょう。考えても分からないなら、とにかく色々な場所に植えてみて、その後しばらくは待つしかできません。芽が生えると信じて待つ。

種の健全さ、環境の健全さ、タイミング(運)、「植える」という行動、どれが欠けても芽は出ないでしょう。でも少なくとも種を植えた後しばらくは、変化のない地表(現実)を見て、でもその下で種が芽を出そうとしていることを信じるしかありません。それを信じて水をやり続けることができるかどうかが、種にとっても人の願望にとっても最初の関門なんだろうな、ということを今日ぼんやり思ったのでした。

芽が出た後も収穫までには紆余曲折あるんでしょうが、種まきの地味さと待ちのじれったさが、おいしい野菜を収穫したい食いしん坊も、大事な願望を実現させたい人全員も等しく通らないといけない道だとするなら、その過程も楽しむ工夫をしてみようと思いました。

以上おしまい。

ピーナツと薪とコンポートの共通項

今日したこと。

朝ひと段落してから去年畑で採れた(その後 Kiko が洗って干してローストしてくれた)落花生の殻むき作業。

全然進まないので Kiko にヘルプ依頼、2人で作業。

ご近所さんが石窯を使わせてくださるというありがたいお申し出。試し焼きをこれからしようと急に話がまとまる。

2人でお邪魔し、石窯が使える状態になるまで、ご近所さんの指導のもと薪をくべる。初めてだったので勝手が分からず、3時間ほどかかる。

帰宅してお昼寝。

起きて再び落花生の殻むき。

夕食後 Kiko はキズものでお買い得に分けてもらったネクタリンのコンポートづくり。わたしは残りの落花生の殻むき。スーパーの買い物袋一杯あった落花生、むいたら正味400グラムでした。

生産性、効率という目で見たら全く割りに合わない作業です。石窯もそう。使えるようになるまで3時間って!オーブンならボタンひとつですぐ使えます。ピーナツもスーパーで買ってくればいい。コンポートだって、黄色い桃の缶詰買えばいいんです。

でも、今日丸一日(なんならここ1ヶ月ずっと)非生産的で非効率なことをやってみた本人の実感としては、なんだかとても豊かなんですよね。ゆったりどっしり落ち着いている。

思うにこういう作業をするとき、生産性や効率、経済的な指標では測れない何かが生まれているから、豊かな感じがするのでしょう。感じていることを言語化するのが難しいのですが、やってみます。自分の手を動かすのが好き、自然の恩恵(薪のこと)を使う、ごみが出ない(ピーナツの包装、桃の缶)、殻むきながら、窯に薪をくべながら会話する、全部のステップが目に見えるので安心(自分達でやってますからね)、単純においしい、など色々あげられますが、少なくともわたしにとっての大きな効果は、「力を取り戻せる感じがする」「感謝を思い出せる」ことかもしれません。

「力を取り戻せる感じがする」は、たとえば自分と家族の口に入り身体と心を養う食べ物を、スーパーで買う(人任せにする)のでなく自分の手で作る力。料理をするエネルギーを電力会社やガス会社から買う(これもある意味人任せ)のでなく、自然の恩恵薪から自分で作りだす力。そのプロセスひとつひとつ、納得できるものを自分で選ぶことから来る自己効力感も力です。

ちょっと脱線。今、脳内にある言葉では表現したい「力」を表せるものがなかったので、ちょっとググりました。「自己効力感」がヒットしました。ネット辞書によると、

何らかの課題に取り組むときに困難な状況であっても、「自分は対処できる」と自分に対して確信、自信といったイメージが持てること

 という意味だそう。近いです。でもちょっと違う。もっと根本的な「生きる力」みたいなものなのです。何かいい言葉、ないか。英語にありました。Self-empowerment です。自分の感じに近い定義を独断と偏見で引っ張ってきました。これです。

Self-empowerment means that you take charge of your own life. 

そう、自分の人生の舵を自分自身で取る力!わたしの反省ですが、日本で生まれ育ち身についた「当たり前」を疑わずにいると、いつの間にか舵を誰か他の人に任せることになりがちみたいです。何だろうな~、食べることから始まり、働き方、人生のレール、政治、ぜーんぶ。実際のわたしの今日の動きは、小さな小さなことです。ピーナツの殻むきをどんだけ広げるんだ、と言われたら、はいその通りですすみませんと言うしかないです。でもこんな小さな動きですら、わたしにとっては自分の人生の舵を取る力を取り戻す、小さな一歩になれるのです。なんかすごくないですか!

「感謝を思い出せる」は、正味400グラムのピーナツができるまでの時間と労力を知ることに尽きます。石窯3時間燃しもコンポートもそうだけど、一番はやっぱりピーナツです。外国産のピーナツ、安いです。国産のピーナツはお高い。お財布にイタいです。今ざくっと通販サイトを見たら、国産のと一番安いピーナツ(まあ海外産でしょう)の価格差は10倍でした。

安いピーナツ、どうやって栽培してるの(農薬とか)という疑問もさることながら、この値段で日本で売るために、産地の誰かにしわ寄せが行ってないかも気になります。もちろんきっと大規模ピーナツ農場で、農機や設備を使って栽培・加工しているのでしょう。でも、人の手でしかできない工程もあるんじゃない?その人達の工賃は?農家さんの手元に残るのは一体どれくらい?

国産ピーナツの値段に納得すると同時に、食べ物が食卓に上るまでのプロセスを知ると、生産者と料理を作ってくれる人はもちろん食べ物そのものにも感謝しないではいられません。ピーナツを育む土と太陽、雨にも感謝です。食べ物が目の前にあるのは当たり前じゃない、ありがたいことだと分かります。「いただきます」の言葉はきっとこういう思いから生まれたのですね。初めて言葉の意味が腹落ちしました。

ブログに再び感謝です。自分でも不思議でした、どうしてお金にもならず時間ばっかりかかる地味な作業をしてこんな風に満ち足りた気持ちになるのか。言葉にしようとすることで、分かりました。目には見えない。でもわたしにとって大事なことです。良かった。

 

 

Fun 暮らし1ヶ月

そういえば、直近の出張通訳案件から帰ってきて1ヶ月経っていました。

そう、つまりこの1ヶ月、お仕事をしてない、無職状態です。

フリーランスの良いところは、自分の状態を自分で好きに分類できるとこでもあります。今のわたしの状態を、無職と言ってもいいし、充電期間中とも、超長期連休中とも言える!

ちなみに自分では、今年は意識して出張を減らし、次の「崖からジャンプ」の準備期間にしようと思っています。一応、意識してます。

ちなみに年内あと2回出張のお仕事が入ってますが、それ以外はなーし。というか、その2回は随分前に恩人から依頼されたのでお受けしましたが、その後「面かじ、いっぱーい!!」のコールが鳴り響きましたので、オファーを全てお断りしております。

理由のひとつは、お仕事=出張というライフスタイルに魅力を感じなくなりました。年齢もあると思います。「大事なことと大事なひと」に集中して時間を使いたいと思うようになりました。家族と離れている意味が、よく分からなくなってきました。もうひとつの理由は、はい、このブログで再三出てくる "Fun" のためです。

今日は(も)畑に行き、大家さんの山椒の実を取らせてもらい、薪割り練習を少しして、家で実山椒の保存の準備などしていたらあっという間に1日が過ぎました。

そんなこんなでこの1ヶ月もあっという間でした。ブログを始めて、畑に本格的に行き始め、採れはじめた野菜を保存食に加工し、合間に少し、興味のある分野の本を読み。

…楽しいです!毎日があっという間に過ぎます。そして今日ふと気づいたのですが、わたし「将来への漠然とした不安」を、畑かどこかに落っことしてきたみたいです。青春のみぎりから、不安はいつも傍らにありました。フリーランスになってからだってずっとそうでした。年末に振り返ると、ありがたいことに途切れずお仕事あったね~という状況下ですら、その時々は不安でした。今は、ありがたいお仕事のオファーを自ら、かなりザクザクお断りしておきながら、そういえばないです不安。ありゃ。大丈夫かわたし。

まあ気持ちは変わるものであるので、預金残高が3桁とかになればまた不安になることでしょうもちろん。

でも、当人が言うのもなんですが、人は変われるものですね。前の "Faith" の詩をたとえにするなら、崖っぷちに来ています、でもまだ飛び込めずにいます。かろうじて体を支えているのはくくりつけられた数個の風船。あれ~、なぜか今度は風船を割り始めました。全部割ったら崖から落ちてしまいます、でもなぜか楽しそうに割っています。どうするんでしょうね?

このおかしな人が、今のわたしです。どうするんでしょうね本当に?

2つ目のお仕事は10月です。その後のわたしに早く会ってみたいものです。

 

野菜と蜜蜂から世界のお肉のことなど考える

はい、今日も小さな畑に行ってきました。

やっぱり人間のサイズは地面にしゃがむのにちょうど良くできていることを再確認しました。

しゃがむといっろんな虫がいるのが分かります。色んな匂いもします。野菜の葉の変色も見えるし、アブラムシがいるのも分かります。草の種類も色々あるのも分かります。

前書いた草むしりについて進捗がありますのでまずはそのご報告をさせて頂きます。

あの後いわゆる雑草達とどのように付き合っていったら良いのか、少し調べました。やはり雑草を駆除するばかりでなく、共存するというか、雑草がその環境に存在する意義を知って、雑草の助けを借りて人間の活動をするということを実践している人はおられますね。

まずは雑草の根。根は土を掘り進め、ふかふかにしてくれるそうです。なので根から引き抜くとふかふか要素を土からどかしてしまうことになり、土が固くしまってしまうのだとか。地下茎で伸びる一部の草を除き、雑草は根を残して刈りましょう。刈った雑草は、その土地に必要なミネラル分を身体に貯めているので、できれば雑草堆肥にして畑に返してあげましょう。それが畑の地力を早く高める近道だそう。

参考にさせてもらったサイトの方曰く、雑草も昆虫も、存在する意味はひとつ、環境のバランスを整えるためにいるのだそうです。ある種類の虫が大量発生することも、ある種類の雑草だけ除草剤散布後に生えてくることも。困ったときは、自分が自然のバランスを崩すことをしていないか、振り返るタイミング、と。

全て納得!です。小さな畑でしゃがんで草を刈る(根は残しながら)時に見える1メートル四方の世界。今日もそこから色々な発見と疑問が出てきました。

しゃがんでオヒシバを刈りはじめたときのことです。どこからか花の蜜の甘ーい香りが。顔の左には大家さんのコスモスが。ああ、きれいだし当然香りもいいんだな、と何気なく匂いをかぎました。あれ?無臭…。顔の右には我が家のジャガイモの花。紫がかってかわいいですよ、でも所詮はジャガイモの花ですよ。まさかね、と思って嗅いでみたら!甘~い。良い香り~!知らなかった~!どうりでミツバチがたくさん来るはず!

それから気になって畑の野菜の花を嗅いで回りました。花豆の紅色の花も甘い良い香り!トマトの黄色いのは青臭いトマトの木の匂い。紫のナスの花もいい香り。パクチーの白い小さい花はハーブっぽい爽やかな香り。かぼちゃの花も嗅ぎたかったけど、ちょうど満開のの中でミツバチが2匹食事中だったので嗅げず。唐辛子の白いかわいい花は嗅ぐの忘れてました。

野菜の花が良い香り(のもある)って、これまで知りませんでした。でも考えてみれば当然ですね。花を咲かせ、ハチなど虫を呼び寄せ蜜をあげる代わりに、受粉をしてもらう。理科の授業で習ったやつです。そぉか~。

そういうつもりで見て聞くと、小さな畑は実はうるさいんです。ハチやコガネムシの羽音、スズメやキジバト、ヒバリの鳴き声。今日ハチだけでも4種類見かけました。恐らくですが、西洋ミツバチ、日本ミツバチ、マルハナバチ、後名前の分からないセクシーなの。モンシロチョウも飛んでいます。

静かな虫もいます。花豆についたアブラムシと、アブラムシを食べるテントウムシと守るアリ。茶色いのはたぶんウリハムシ。なんか大量発生してる風です。ちょっと土を掘る作業をすると、ミミズだの幼虫系のやつだの、極小ウジ?が団子状にもじゃもじゃしてるのだの、怖ろしいほど生命に満ち溢れています。

この状態が「バランス取れてる」のかどうかは分かりません。でも、結構な生物多様性だと思います。畑2年目のひよっこが育てる野菜が、沢山の命に繋がっていると思えるのはちょっと嬉しいです。

同時に、今読んでいる本のことも思い出しました。

「ファーマゲドン 安い肉の本当のコスト」

  By フィリップ・リンベリー、イザベル・オークショット

今日のところの感想としては、今後軽い気持ちで肉と卵と魚を買うことはできなくなったと言うに留めたいと思いますが、この本の中にもミツバチ出てくるんです。以下引用。「世界のある地域では、農業が工業化された結果、作物の受粉を担うハチが消えた。その結果、農家は、お金を払ってハチを借りるしかなくなった。…自然受粉に不可欠な野生のハチは、農薬まみれの単一栽培を行う工業型農業のせいで、生息地を奪われ、駆逐された。今のところ、ハチを貸すビジネスがその代役を務めている。」

アメリカの養蜂家の多くが、蜂蜜の生産よりハチレンタルビジネスで儲けているのだそうです。そしてハチレンタル代は年々上がり、レンタル代を捻出できないため農業を辞める人も出ているのだとか。

素人ですけど、明らかに「バランス」崩れてますよね、これ。そして何も海外の例を見なくても、身近にありました、「農薬まみれの単一栽培」。わたし達の借りている小さな畑は、実はそういう畑に囲まれています。一面のキャベツ畑、一面のレタス畑。雑草は除草剤に負けない1種類しか生えてません。近くを歩くと薬っぽい匂いがします。実際農薬を撒いているのを見ることもあります。(大家さんは化学物質過敏症、急いで家に逃げ込むそうです)蝶々もハチも鳥もいません。収穫後の畑には、規格外だからかキズがあるのか沢山キャベツやレタスが放置してあります。でも、生き物が食べているのを見たことがありません。ぐったりねっとり腐っていきます。

虫や生き物が食べない野菜。本で読んだコワイ肉や魚とつながります。「ほんとうに」おいしいもの、体がよろこぶもの、自然のバランスの中で育まれたものを口にしたい。誰にとっても至極当たり前なはずの望みです。どうしたらそこに近づくことができるか。これからも考えていきます。

畑という窓を通して、今日も沢山のことを感じました。いいね畑。ありがとう&ごめんなさい自然。