無知の知でございました

昨日、ご近所さんにお誘い頂き、初めてお茶にお出かけしました。

近所の素敵カフェに行き、アンティークでしょう素敵テーブルに案内され、「わ~、素敵ですね~」か何か言いながら何も考えず席に着きました。

そうしたらば、何か周囲がざわついているのですね。一緒にお出かけしたご近所さんが、ちょっと狼狽した風に何か言っておられます。何かわたしをフォローして下さっているようです。

そこでようやく気づきました。わたし、上座に座っています。うお~。わたしはその場で一番年下、しかも初めてお誘い頂いた新参者なのに!油断してました~。皆さん良い方達で、「今日はゲストだから、ねっ」とフォローして下さったのと、わたしはとにかくその場ではぼんやりしていて「だって、プライベートだしね~(仕事の上下関係とかじゃないし)」くらいだったのですが。帰宅してからじわじわ効いてきました。一晩経った今日も、例によって草むしりしながらずっとそのことを考えていました。

やっちまった!と気づいた後のわたしの最初の反応は「仕事ならできたのに!プライベートだから油断してた!」でした。確かに仕事中はビジネスマナースイッチをオンにしてるので、きっと気づいたでしょう。

でも、ご一緒した皆さんもプライベートだった。それなのにいたって自然なこととして、お年寄りや年上の方に気づかいとして良い席を勧めることをされていた。はい、仕事云々は言い訳ですね。

次の反応は「わたし思ったより育ち悪かったんだな」でした。ご一緒したご近所さん達は皆、育ちが良いとはこのことかと常々思わされる品の良さ、気づかい、朗らかさをお持ちです。きっと小さな頃から、人への接し方と気づかいをしっかり教わってこられたのだと思います。

一方わたしは、ド・庶民です。両親は真面目に、持てる限りの愛情と時間を注いでわたし達兄弟を育ててくれました。でも、生活苦もありました。家族の気質として、あまり人づき合いをする方ではありませんでした。大人と接する機会は田舎ならではの葬式、法事くらい。そこで後ろ指差されない程度のマナーは教えてもらいましたが、そこ止まりです。

でも今日草むしりしながら分かりました。わたしもう44なんですよね。もう、「育ち」を言い訳にできない年齢です。社会に出てから約20年の間、観察して身につけることはいくらでもできたはず。

社会人として「後ろ指差されないため」にならできることが、普段のわたしだとできないということはどういうことか。後ろ向きな動機のために、ただ表面だけ、形だけその「動き」をしていただけで、自分の内面から湧き出る行動じゃあ全くなかったということですね。残念なことです。

残念なことですが、気づけたこと自体は良かった。気づけたなら、変われます。わたしは、自分に気づかいを教えないといけません。後ろ向きな動機のためでなく、それが正しいからでもなく、愛から出る気づかい。マナーって本来はそういうものでしたね。

実は、ウツ前わたしが来ていた着ぐるみは「気づかいの人」でした。友達にも、近所の人にも、見知らぬ人にも気を使えていたと思います。でも、動機はネガティブでした。嫌われたくない、好かれたい、浮きたくない。だから疲れますよね。ひとりになっては「あ゛ーーーーー、づがれだーーーーーー」と脱力してました。

今は、着ぐるみは脱いで本体で過ごしているんですが、この本体はまだ未熟で、ひとへの思いやり、気づかいが足りないことに今回気づきました。

ほんとうのマナーを、自分に教えようと思います。

 

Think big

今朝起きがけに夢を見ました。

内容は特になかったのか忘れたのか、夢の伝えたいメッセージだけが頭に残った状態で目が覚めました。そういうことって皆あるのでしょうか。聞いたことないから分かりませんが、わたし時々あります。

今日のメッセージは、タイトルの通り "Think big" でございました。なぜか英語。

印象に残ったのは、起きているときのわたしと真逆、あるいは異次元のことばであるからです。何度も書いていますように、意識のわたしは小心者、石橋を叩き、一歩一歩足元を確かめながら歩くタイプ。決して大胆な野望を持ったり、大きな夢を抱いたりするタイプではございません。畏れ多すぎて自然に敬語になる程です。

…あ~、でもありました、わたしにも夢が。山をひとつ買うか借りるかとにかく入手して、 Kiko と一緒に健やかな森に再生したい。原生林として蘇るエリア、里山として恵みを利用させてもらうエリア、畑として作物を育てるエリア、小さな小屋、人と暮らす動物が安らげるエリア、野生の動物、水、土…。全部が循環し、調和する小さな山をつくる実験をしたいのです。

この夢、意識のわたしは大それていると思います。資金もない、必要な知識もない、時間も有限(Kiko は50代後半、わたしは40代半ば)。でもしたいのです。生きている間に完成しなくても良い、次の世代の誰かに引き継ぐことができれば良いです。

これだけでも充分 "Big" な大志だと思いますが、今日の夢はこのことを言っていたわけではなさそうです。根拠はないですが、なんとなくそう感じるので、きっと合っています。今意識に上がっている夢とは別の内容か別の次元か、とにかく今自分が知らず知らずのうちにはまっている「考える枠」をとっぱらってもっと大きく考えなさい、と 言われているようです。

自分比ではこれでもずいぶん取れたんですけどね~、枠。まだあるのか~…。そりゃそうですよね。持っていると意識すらできていない枠を、どうやったら外せるのか。「考える」には答えはなさそうです。「動く」「感じる」辺りにはありそう。

今知ったのですが、株取引の格言では "Think big, act small" と言うんだそうです。これはたぶん普遍的に応用が利くことばでしょうね。よし、明日はまず何か行動をしてみよう。

 

 

 

Fun 仕事への道⑤ なんか合ってる気がします

まずわたしの好きな詩から紹介したいと思います。

 

"Faith"                 By Patrick Overton

When you come to the edge of all the light you have and are about to step off into the darkness of the unknown, faith is knowing one of two things will happen.

There will be something solid to stand on or you will be taught how to fly.

 

10年以上前、たぶんウツ後無職で引きこもっていた時期に、偶然ネットで見かけた詩。最初はね、意味が分かりませんでした。確かに人生は明かりもなく一寸先は闇だよね、みたいなネガティブ解釈をした気もします。

でもある時分かって以来、このFaithというものをわたしも持ちたい、持てる人間になりたいと思ってきました。未知の闇を怖れず、踏み出した足の下には必ず足場があると「知っている」「分かる」人。さらには今の自分を超えて次次元のじぶんになる(飛べるとか)ことも想定内な人。

物心ついてからこれまでの人生の99%を小心者、自信なしで過ごしてきた者としてはそんなアドベンチャーな人生も人格も自分からは遠くにある存在だと思ってきました。遠くからあこがれる存在。

でも44年間かけて人生すごろくのコマを行きつ戻りつし、色々な働き方をさせてもらい、ひとり働き方改革が知らない間に進行した結果、今どうもわたし「手持ちの明かりが届く崖っぷち」まで来ちゃってるようです。もう明かりが照らす「これまでの道」を歩く気がしない。飛び出した先に何が待っているかは、全然見えない。でも、飛び出すんだな~。何に向かって飛び出すのかもよく分からないけど、これで「合ってる」ことだけ「分かる」のです。

これが Faith がある状態なのでしょうか。想像していたのはこう、もっと自信満々でエネルギッシュな様子でしたが、実際の今のわたしの感じは、淡々と、ぽかんとしています。あ~、次はこれか~。なるほどうまく出来てるなぁ、と。飛んだ先に何があるのか全然分からないので、具体的に何をすれば良いかも分からないのですが、今分かりました。わたし、次は飛び出すんですね。

こんな時が来るとは、という意味で感慨深いものがあります。だって "Faith" の詩を知ったときは、暗闇にジャンプなんて無理、ゼッタイ。と思っていましたから。なぜなら基本姿勢が「生きるのコワイ、油断したら足をすくわれる」だったから。そうしたら当然、少しでも怖くないように、足元照らして一歩一歩歩きたいですよね。暗闇ジャンプをできるためには、その真逆の姿勢がいる、そして自分がそうなれる気がしませんでした。「生きるの楽しい、何が起きても大丈夫」。

具体的に考え出すと(お金のこととか)不安になるので、今はとにかく体を動かすことと、心が感じることに気づけるようにしておこうと思います。

ぼんやりした内容でごめんなさい。ほぼ自分への覚えとして書きました。

それではまた~。

Fun 仕事への道④ わたし「ひとり働き方改革」してたんですね

前々回からのつづきです。

ウツ回復期に初めて「着ぐるみ」はわたし本体ではないことに気づき、本体の性質と志向を観察し始めました。

そうすると、いくつかキーワードのようなものが見えてきました。

  • もう着ぐるみは来たくない。仕事もプライベートも、本体のままで過ごしたい。
  • 都会には行かない。人多すぎ、緑少なすぎ。
  • ようやく見つけたわたし「本体」の軸を大切にする
  • 仕事は地味で地道なもの。地味な作業が苦にならない職種を探そう

全てを満たしていたのが、「通訳」というお仕事でした。フリーランスになれば、住む場所問わず仕事できそう。物心ついた頃から、外国語の勉強という地味なプロセスは好きでした。誰かの言葉を訳す仕事なら、自分のカラーを問われないということも、当時まだよちよち歩きの「自分軸」を育て中だった身には魅力的に思えました。

なんちゃって通訳アルバイトや、社内通訳の経験が若干はあったものの、本格的な経験はなかったので、いつもの「石橋を叩いて渡る」、別名ビビりな性質を発揮して、まずは通訳学校で訓練してもらおう!と考えます。

派遣で学費をどうにかして、通訳学校に入学しました。当時35歳。遅いスタートだと思います。1年もいれば卒業できるでしょ~、と甘い目論見で入りましたが、その後足掛け3年半通って、最終クラス止まり。実は今も卒業しておりません。

通訳学校に行き始めて1年ほど経った頃から、学校と並行して派遣通訳を始め、派遣生活後半はフリーランスになるため単発案件も受け、そうこうするうちに Kiko と出会い、結婚のため引っ越します。

なにぶん木こりというのは儲からない職業のようで、結婚後わたしも家計の足しに、と社員就職の道も探りました。ハローワーク通いました。でも、どうもご縁がなくて。シンプルに言えば、落ちました。まあ、職歴欄異常に長いですしね。40ですしね。

それで、いつかはなりたいと憧れてはいたものの、自分にはまだ早いと怖気づいていた「フリーランス」というやつに、なったというよりならざるを得なかったというのが実情です。どっきどきして個人事業主登録に行きました。

おろおろフリー通訳になってみたものの、弱気は変わらずです。仕事をお受けすればしたで緊張して胃痛と後悔、仕事が途切れれば「もう仕事来ないかも…」とブルーになり求人検索。振り返るとなんと3年と少し、決して豊かではないけれど、生活できていたことに本人が一番驚いております。

今回ブログのために仕事のことを思い出してみて良かったです。文字にすることで、社会に出てからこれまで20年弱、わたしは少しずつ思い込みを捨て、できるはずないと思っていたことに挑戦し、歩いてきたことが意識できました。

「社会人になれない、怖い」から始まり、「とにかくどこかの組織の一員として働く」をクリアし、転職などというアグレッシブな動きも(追い詰められたネズミの逆襲的にですが)できるようになり、主体的に自分がしたい仕事を探し始め、メインストリームからは落っこちましたがウツで着ぐるみを脱ぎ去り、社員も契約社員も無職も派遣も経験できて、どの気持ちも分かりました。メインストリームから脱落しても人生終わりじゃないことを知りました。むしろ無理に主流に合わせることをしなくなったため、脱落後の方が幸せです。そして直近では組織に属さないで生きることを学びました。

「働き方改革」という謳い文句、ありますね。わたし20年間かけて自分の、ですけど働き方を改革してきたのかも。何を目指しての改革か。Fun と自由です。そして、想定外でしたが今またセルフ働き方改革の次のステップがやってきたみたいです。そう、このブログでも書きました通り、「自分のことばを話す」「仕事をつくる」「自分の志向と経験を全部統合して、それをなりわいにする」こと。

そしてこのひとり働き方改革は、決してわたしひとりではできませんでした。その時々の同僚、上司、友人、家族…。出会った人皆が(反面教師も含め)何かを教えてくれました。感謝です。これからが本当の恩返しだ~!待ってて!

 

 

小さな畑の小さな宇宙

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赤ちゃんオヒシバ。


こんにちは!「Fun 仕事への道」はちょっとお休みします。

なぜか。今日は雨の合間を縫って何日かぶりに畑に行ってきてヘロヘロだから…。それもありますが、畑で感じることがありまして、忘れないうちにそれを文字にしておきたいからです。

あの、畑と言いましても地主さんから借りている小さなスペースで、そうですね、30歩分ほどの長さの畝が4本ある程度です。伝わりづらい?とにかく、農家さんやちゃんと畑をされる人から見たらままごとみたいな規模とスキルで、去年から畑デビューしています。

畑に行って何をするかというと、いる時間の9割は、草むしるか刈ってます。ははは。ど素人ながら、除草剤はなんかやだ、プロ目指すわけでもないし好きなようにさせてもらおう、と農薬系は極力使っておりません。極力ですが。そうすると、草!草!草!雑草の生命力炸裂です。

短いつたない経験ながら、草に勝とうなんていう思い上がりは早々に捨てました。彼等は誰に世話されるでもないのに、先祖代々この土地で栄えてきたのです。根性が違います。全部抜いたと思っても、根が残っていればまた葉を出します。抜いたのを地面に放っておくと、また根を張ります。根こそぎ抜いてちゃんと捨てたと思っても、残された種が次の雨ですぐ芽を出して、つぶつぶした緑の芽がじゅうたん状態です。敵ながらあっぱれです。

草の量が多いときは、立ってできる「立鎌ホー」で地表を削る感じで草を取ります。今日はちょっと余裕があったのと雨で土も柔らかくなっていたので、しゃがんでのんびり手で抜きました。

しゃがむと目が地表から50センチくらいの高さになります。で、一度に視野に入るのはだいたい1メートル四方くらいでしょうか。この目線と広さが、わたしにはちょうどいいということが今日分かりました。地面の様子、匂い、動き回る虫達、草の様子、根っこと一緒に掘り返されるミミズや虫の卵、アリ達の姿がよく見えます。あんまり広々と見渡せてしまうと、抜いても抜いてもきりがない草むしりがただの苦行になるでしょう。でも1メーター四方なら、小さな世界を観察しながら、目の前の草に集中できます。

まだ畑新人なので、生き物のことも雑草のこともよく知らないのですが、今日ひとつ雑草を知りました。「オヒシバ」。草むしりを一度でもしたことがあれば、見覚えがあると思われるとてもよく見るイネ科の雑草です。つまり丈夫でやっつけにくい、人間にとっては厄介な雑草です。わたしもこれまで数えきれないくらい抜いたり取ったりしてきました。でも、花がきれいなわけでもなく地味な存在だったので、名前を知ろうともしませんでした。今日までは。

今日も、あ~またあのよく見る(やっかいな)やつだ、と思って草丈5センチくらいのオヒシバを抜きました。たまたまそのオヒシバはビニールマルチを押さえる土に生えており、根が地中深くに入っていなかったのでしょう、珍しく根っこがするすると茎にくっついて抜けてきます。そうしたら。5センチしかない赤ちゃんオヒシバなのに、根は30センチ以上も伸び、しかもそれくらいの長さの根が何本もあります。

…軽くショックでした。なぜでしょうね。これまで意識したこともなく、よくあるただの雑草としてポイポイ抜いてきた草の、生への執念を見せられた気がしました。わたしにとっては「草むしり」ですが、オヒシバにとっては命が終わるかどうかの真剣勝負です。命をつなぐため、本当は全部のオヒシバが、こうやって背丈の何倍もの根を張っているのでしょう。

見えないところで全力で根を張り生きようとするオヒシバは、なんちゃって農婦の襟を正させてくれました。具体的には、「雑草」とひとからげにせず、ひとつひとつまず知ろう、知ったうえで必要であれば敬意を持って命をもらおう。共生が可能であれば、そうしようと思いました。

畑にはオヒシバ以外にもたくさんの「雑草」が生えています。分かるだけでもスベリヒユ、シロザ、ハコベ…。それぞれの根は、地中でどうなっているんだろう。根は地中の生き物や土の質にどう関わっているんだろう。わたしに見えている世界はほんの一部で、地中にはその何倍ものわたしの知らない世界が広がっていそうです。地中の世界には植物、昆虫、モグラにミミズ、微生物のめくるめくドラマがきっとある!

畑の小さな宇宙のことを、地上も地下ももっと知りたくなりました。草むしり。いいです。

Fun 仕事への道③ ウツになりました。それが良かった。

前回からの続きです~。

 

えーと、軽いウツから休職、退職し、無職になりました。

大きく2種類の気持ちがあったように記憶しています。ひとつは、とにかくほっとしました。病名がついたことで、もう頑張り続けなくていい、もう休んでいいんだ、とこれまで気を張っていたのがすごい勢いで体から溶け出していくようでした。とにかく寝続けました。

ふたつめは、これで普通の人生コースからはみ出しちゃったな、という認識でしょうか。鮮明に記憶に残っている風景があります。当時わたしは都会の病院へ通っており、大きな交差点にビジネスマン・ウーマンの皆さんとわたしとホームレスのおじさんが信号待ちをしていました。信号が青に変わり、ビジネスマン・ウーマン達が足早に歩きだす中、わたしとホームレスのおじさんだけ、後方に取り残されています。早く歩く理由がないわたし達。

そんな訳で何とも心もとない気分ではいたのですが、ウツ回復期にあることに気づけたことが、それまでの人生最大の「目からウロコ」体験となり、結果としてウツになったことが大転換点となりました。

何に気づいたか。「自分を知らない」ことにです。この時もういい大人ですので、自分のことは当然自分が一番よく分かっていると思っていました。でも、気づきました。それまでずーっと、「周りに求められているわたし」の着ぐるみを着て、着ぐるみを自分だと思っていたことに。親の期待に応えるわたし、上司の期待に応えるわたし、わたしの期待に応えるわたし。どうもいつも生きづらいし自分が嫌いと思っていたのは、着ぐるみが重かったのです。期待に完璧に応えられる「素敵な着ぐるみ」になろうとしてできないから苦しかったのです。

それから、生まれて初めて「本体」であるはずの着ぐるみの中身、素のわたしのことを観察し始めました。何をして喜ぶか、何が嫌いか、何を望んでいるか。ずっと寝ていたので体力も落ち、気力もちょうとゼロになっていたので、心身ともにゼロベースでひとつずつ「したいこと」を拾い上げることができました。自然の中にいること、音楽を聴く、本を読む、散歩する、歌う、ヨガ…。徐々に活動レベルが上がっていきました。

「したくないこと」はしばらくは完全拒否しました。家族に迷惑をかけました。でもこちらも徐々に小さなことからできるように。こちらの方が時間かかりましたけど。頼まれたことをする、人混みに出かける、から始まり、数年かけて「毎日仕事に行く」レベルまで戻りました。

そんなわけで、ウツはわたしにとって大変ありがたい経験になりました。自分だと思っていた重い重い着ぐるみを脱ぐことができたからです。中身の素のわたしを、凸凹でいびつな姿でも受け入れ始めるきっかけをくれたからです。

そうして浮かんできた「したい仕事」が通訳でした。

今日は指が重かったです、やっぱり思い出すのにエネルギー使うエピソードなんでしょうな~。ちょっと疲れたので、続きはまた後ほど~。

 

 

 

Fun 仕事への道② よたよたと社会人化、でも想定外が続きます。

こんにちは。前回からのつづきです。

 

モラトリアム留学から帰国しました。ついに就職活動を始めます。氷河期継続中、4大卒女子、モラトリアム進学、マイナー国留学、既卒と不利カードを沢山貯めてしまったようです。この時点でふつうの企業さんは諦めました。不利カードがジョーカー的に化ける就職先、ないか?と乏しい人生経験から考えました。思いついたのは「都会」と「タイ語を使う」のキーワード。よし、これで攻めよう。

すみません、ウソをつきました。「攻める」なんてことできませんでした。帰国して1月程悶々としていたら(よく悶々とします)、学校の先輩から電話が。聞けば先輩の職場はバリバリタイ語を使い、ちょうど一人欠員が出て募集しているとのこと。給料は安いし福利厚生もないけど、受けてみる?「はいいっっ!!」場所は学生時代を過ごした都会でした。タイ語使える、友達もいる。友達のアパートに泊めてもらい筆記試験と面接に行き、外資系(タイ系も外資って言うのかな)ゆえに不利カードがうまいこと化け、採用されました。

今考えると、ラッキー以外の何物でもなかったと思います。学生時代学んだことを活かせ、知った街で、先輩の言う通り給料は高くはなかったものの、まだバリバリ就職氷河期のさなか、帰国後1ヶ月で安定した職業につけたのです。他の会社にも少し応募はしましたが、就活らしい就活をほとんどせず、最初の仕事にありつくことができました。本人の感覚としては、溺れる者がワラをつかんだ感じです。そう簡単に仕事は見つからないとこわごわ就活の海に入ってみたら、もう目の前にワラが!これを逃したら次はない!がばっ。たぶんどんなワラでもつかんでいました。たまたま、最初のワラがハイスペック案件でした。

でも、ここに勤めたのは2年半ほどでした。決められたルーティンワークをこなせば良い職場だったので、怖れていた「社会人になれない」は意外とすんなりクリアできました。先輩が厳しく優しく教えてくれましたしね。でも、今度は別の悩みで悶々とし始めます。「わたし、誰の役にも立ってない」「素の自分じゃない仮面で仕事するのいやだ」贅沢で甘い悩みですね。今は分かります。当時は真剣でした。得意の「悶々」でどんどん深みにハマっていき、元気がなくなり、現状維持の辛さの方が転職という「したことないこと」への怖さを上回ってしまいました。まさか自分がするとは思っていなかった「転職」などという大それたことを考え始めます。

生来臆病者ですので、在職したまま転職活動を始めます。若干の社会経験から、次は民間で、スピード感があって、勢いのある会社に行こう!と思い、起業間もない輸出会社の求人に応募をし、受かりました。タイ語も使えるというお話でした。

今思い返すと若者がはまりやすい「ブラック企業」への道のりに、すんなりのっちゃったな~、と分かるんですけどね。当時は希望に満ち溢れて転職しました。起業後間もない=創業社長がかなり個性ゆたかな方、勢いとスピード感=ワンマンかつ社員の入れ替わりもスピーディーでした。この時は「ん?間違った」と割と早く気付き、ようやく、自分は実際どんな仕事を望んでいるのかを考えました。

それまでは、「仕事があればラッキー」「自分のスペック(言語)を望んでくれる会社があればラッキー」で仕事を見つけてきました。自分が何を仕事に望んでいるかは考えてこなかった。でも、2回失敗して気づきました。わたしも何かは望んでいて、それとマッチしない仕事だから苦しいんじゃ?セルフヘルプ本など読み、ワークをし、自分の志向が分かってきました。「役に立ちたい」「衣食住、暮らすこと大事」「自然好き」

なるほど~。じゃあ、と次はオーガニックスーパーの求人に応募します。分かりやすいですね。人生すごろくのコマのようです。初めて主体的に「したい」仕事を選んだので、それはそれはやる気一杯でした。スーパー側も、期待の新人扱いしてくれました。でも。社会的に意義のあるお仕事と、現実の会社運営(儲けることです)って、一致させるの難しいのですね。現実は理想とは違う。言い古された言い回しですが、事実だから皆使ってしまうのでしょう。

でも当時のわたしは、そのことが受け入れられなかった。正しい企業理念と、結果(儲け)が比例しない。皆正しいことのためにやりがいを持って働いているはずなのに、疲弊していく。歯が抜けるように、一人欠け、二人欠け…。そんな中、わたしは周りから「Miko は大丈夫!」と言われ続けました。本人も、誰がいなくなってもわたし一人でやり切る!と思っていました。結果が出ないのは、まだ努力が足りないからだと自分を駆り立てました。人手が足りず、22時間連続で働いたりしました。

そうしたら、少しずつ異変が起こり始めました。TVや本、マンガを見たり読んだりしても、中身が入ってこなくなりました。楽しいはずのイベント(友達と会ったり)が、楽しめなくなりました。仕事の単純ミスが増えました。体が重く、職場の4段位の階段が200段位に感じました。理由もなく悲しくてお風呂で泣いたり、服の着替えが複雑なパズルのように感じられて手間取るようになりました。

仕事がうまく行かないのは、自分がいたらないからだと思いました。もう当時のことをあまり覚えていないのですが、住んでいたマンションの屋上に何度か上がりました。具体的に何かしようと思ったわけではないですが、人生から降りられたら楽になるのにな~、と思って屋上から下を見ていました。様子がおかしいのに気づいた先輩の勧めで病院に行き、「軽いウツです」となって休職し、その後退職しました。

人生すごろく、ここから無職です。ちょうどきりが良いので、今日はここまでにします~。

(ちょっと暗いところで終わってますが大丈夫、その後分かるのですが「ウツ」は最高の転換点となるのです。)