地味で小さくて、でも可能性の固まり、種。

梅雨は明けたと勝手に思っていたのですが、まだみたいですね。今日も畑に行ったのですが、2時間ほど経ったら雷がゴロゴロ言い出し、そのうち降ってきました、雨。でも今日は読みたい本があったから、わくわくして帰ってきました。

「タネと内臓」吉田太郎著 築地書館

「学びたい」モードはまだ続いていて、先日図書館で10数冊本を借りました。食の話、農業、環境、自給自足してる人達のフォトエッセイなど。今何に興味のベクトルが向いているか、大変分かりやすい選択です。

本は良書!読み始めたら、サスペンスを読んでいるようで夜遅くまで本を置けませんでした。読み飛ばしてはもったいないので、今日イチからメモりながら読み直しています。

でも今日は、この本の感想ではなくて、タイトルにもなっている「タネ」についてぼんやり思うことがあったので、書きます。

畑でする作業のひとつに、もちろんあります。「種まき」。でもわたし、実はこの作業があんまり楽しめないんです。なんでだろう。まだそれぞれの野菜の種のことをよく知らないので、皆一緒の黒い粒に見えます。土にちょっと穴を掘って、種をパラパラっと入れるか置いて、土かぶせて、水やって。同じ繰り返しを、何十回。ちょっとね、飽きてしまうのです実は。

草刈りの方がまだずっと楽しい。それはたぶん、違いがすぐ目に見えるから。種まきは、ビフォア・アフターが全然分からない。手ごたえがない、実感がない。その後も、できるのは水やりくらいで、じっと発芽を待つしかできません。地中は見えない。芽が生えるのか生えないのか、知っているのは地中の種だけです。

大家さんにも言われました。「種から育てるのは素人には難しいよ~。苗買ってきた方がいいよ~」って。確かにそうです。苗は楽しい。もう目に見える株があって、それが日に日に育っていきます。

だけど「タネと内臓」を読みながらふと至極当たり前のことを思いました。種が全ての始まりで、始まりは地味なものなのかも。いまいち楽しめない種まき(とその後の土の沈黙)ですが、でもこの作業をしないと、食べたい野菜・作物は絶対に育たない。種をまいたって必ず生えるわけではないし、芽が生えても実が順調になるかは分かりません。でも、大豆が食べたければ大豆の種豆を、バジルが食べたければバジルの種を植えないことには、自分が欲しいものが育つ可能性は永遠にゼロパーセントのままです。だから、地味な種まき作業は実は畑作業のきもなんですよね。種のこと、もっと知って種が喜ぶまき方をすること、多分大事なんだろうな。

You reap what you sow. 自分がまいた種は自分が刈り取る。因果応報と訳すと浮かぶ図が仏教寄りになってしまいますが、自分の行いが自分に帰ってくるということですよね。

畑仕事にぴったりなこのことわざ、もっと大きな読み取り方もできると感じます。人の願望や願いが形となり実現していく過程も、同じですねきっと。この場合の種は、願望を持つこととか、ベクトルをセットすることかな~。願望という種を持つ。種を持っているだけでは何も起こらない。種は土に植える必要があります。願望は実現するために必要な環境に置いてやる必要があります。何が自分の願望にとって健やかな土壌であり水であり太陽であるかは、それぞれが考えないといけないのでしょう。考えても分からないなら、とにかく色々な場所に植えてみて、その後しばらくは待つしかできません。芽が生えると信じて待つ。

種の健全さ、環境の健全さ、タイミング(運)、「植える」という行動、どれが欠けても芽は出ないでしょう。でも少なくとも種を植えた後しばらくは、変化のない地表(現実)を見て、でもその下で種が芽を出そうとしていることを信じるしかありません。それを信じて水をやり続けることができるかどうかが、種にとっても人の願望にとっても最初の関門なんだろうな、ということを今日ぼんやり思ったのでした。

芽が出た後も収穫までには紆余曲折あるんでしょうが、種まきの地味さと待ちのじれったさが、おいしい野菜を収穫したい食いしん坊も、大事な願望を実現させたい人全員も等しく通らないといけない道だとするなら、その過程も楽しむ工夫をしてみようと思いました。

以上おしまい。