「いただきます」理解がもう一段深まりました

半年前に生まれて初めて猫を飼い始めたときに思ったものです。人ってこんなに簡単に「猫フリーク」になるのか!それまでの自分を反省しました。猫飼いの人達が自分ちの猫がいかに可愛いかメロメロになって話すのを、「それはかわいいですね!」と言いつつ(へーーーー…ちょっと引くかも)と思っていたことを。

なんでそんなことを言い出したかというと、今日も畑の話だから、その言い訳です。だって!毎日いろいろ発見があって楽しいんですもん!きっと第3者目線で見たら、「へーーーー…ちょっと引くかも」なことでしょうが、いいんです。どっちみち今のところ読者1人(Kiko)だし。

そんなわけで今日も畑行ってきました。

今日ちょこまか作業をしながら、ふと思いました。「わたしが刈っている草や、芽かきをするトマトの木は、わたしのことどう思っているのだろう?」同時に子供の頃聞いて印象に残っている「植物に心があるか調べた実験」のことも浮かびました。今ググりましたら、アメリカのバクスターさんの実験のことでした。1960年代、嘘発見器のプロだったバクスターさんがちょっとしたいたずら心から嘘発見器を観葉植物につなぎ、「葉っぱを燃やしてみようかな~」と心で思っただけで、嘘発見器の針が激しく反応した、というものです。教科書にあったんだったかな。花が、いじわるする人とやさしく世話する人に違う反応をしたとも書いてあった気がします。

そうすると次は目にする何もかも、自分がすること全部が気になりだします。かぼちゃの枝も切るし、レタスの小さいのも間引くし、ナスもピーマンも実を奪っていく。虫もそう。一番良くて放置で、トマトの実を食べるイモムシは、指で弾くか、勇気が出れば「捕殺」ていうこともします。アブラムシも同じ。

…残念ながら、畑の誰もわたしの存在を喜んでいる気がしません。

もちろん植物や昆虫に人のような感情があると断言はしませんしできません。でも、明らかに命です。生まれて、成長して、子孫を残し、死ぬ。命がある存在全てに共通するこのサイクルで生きている。

「奇跡のリンゴ」で有名な、無農薬リンゴ栽培を成功させた木村さんも、本の中で書いておられます。畑のリンゴの木が全て枯れそうになったとき、一本一本「どうか生きてくれ」と話しかけた、と。でも隣地との境の木には、恥ずかしくて話しかけなかった。話しかけた木だけが生き延びたそうです。

畑の大家さんも、あるエピソードを教えてくれました。軒先のモクレンの木が大きく育ちすぎて、倒れたら家に危険なほどになったそうです。場所が場所だけに、切って倒すこともやはり危険。その話を知った友達がアドバイスをくれました。「木は人間の言葉分かるから、あんたいらないよ、もう枯れていいよと言ってやったらいいよ」半信半疑でその言葉を言ったところ、本当に元気がなくなり、枯れていったそうです。

畑で野菜を「育ててる!」と調子に乗っているわたしですが、虫や雑草から見れば天敵、野菜だって体をいじくった挙句食べてしまうという、虐待まがいのことをしているのかもしれません。

そんなことを思いながら(今日もまた)パクチーの葉をむしりました。人間て、何なんだろうなどという大きく構えた疑問も浮かびます。動物を食べ(殺し)、植物を食べ(殺し)、その過程で更にたくさんの生命(虫、雑草、微生物もかな)を殺し。そうすることでしか命をつなげない。そんなことを言い出したら生きとし生けるもの全部がそうなのですが、それに疑問を持てる存在はたぶん人間だけ。なのだとしたら何らかの答えを見つけることができるのも人間だけのはず。

人間だけが、なんだか世界で鬼っ子な存在だよね、という昔からの違和感もふわふわ意識に浮かんできます。自然の存在は、動物も植物も石も土も水も皆調和しているようなのに、人間だけ人工物を作り、手に余るテクノロジーを作り、調和を乱している鬼っ子。自然に与えることなく、奪うばっかりの存在のような気もしてきます。

ちょっと暗くなりながら今日の作業を終えてこのブログを書き始めたら、答えの一部がこれまたふわふわと浮かんできました。「感謝をする、それでいいんだよ」。

ちょっと話を植物だけに絞らせてください。個人的な話ですが、ウツから回復するときも、その後の自分的危機のときも、植物に救われた自覚があります。人間は刺激が強すぎてムリだったときも、とにかく安全な場所へ逃げたいと思ったときも、近所の公園に行きました。雑木林の緑のグラデーション、木漏れ日、芝とその間に咲く野花に何度なぐさめられたか分かりません。

その時も少し、今回と似たことを思ったのでした。植物にこんなに助けられているのに、わたしは何も返せていない。そして感じた答えも同じでした。「いいんだよ」。

「いいんだよ」では説明不十分ですよね。あえて言語化するならば、植物たちはとにかくやさしいと感じました。人間の損得勘定とはスケールが違う大きな視点を持っていて、わたしが植物を愛で感謝する、その気持ちだけでいいんだよ、と言ってくれているような気がしました。

今日の「いいんだよ」も、同じやさしさから出ているものだと思います。生き死にも損得勘定も、人間のそれとはスケールが違うのでしょう。自分の命が別の命(わたし)へつながるだけのこと。「感謝」とともに食べることで、自分(野菜)はあなた(わたし)の一部になり、つながっていくからいいんだよ。

植物以外の存在についてはまだ答え探し中ですが、何を食べるにせよ、心底から「あなたの命をいただきます。わたしの中で生きてね、ありがとう」と思えたら、本当の意味で食べ物が身も心も養う、生きた食事になるのでしょう。

これから植物・野菜と向き合うわたしなりの指針ができました。植物への罪悪感からは、これでひとまず自由になれそうです。次は虫だな…。苦手なんだけどな…。